Floating in Europe

ヨーロッパで言語学を学んでいる学生の日々です

テレパシー

こんにちは。ドイツの外務大臣は木曜日の朝、「私たちは今日全く違う世界に目覚めた」と発言していました(Wir sind heute in einer anderen Welt aufgewacht)

https://www.zeit.de/politik/ausland/2022-02/annalena-baerbock-russland-ukraine-sanktionen?utm_referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2F

その言葉通り、木曜金曜と大学でどの授業が始まる前でもウクライナについて話していました。話すことやディスカッションすることの大切さは承知していますが、人々が今も逃げている間、人々が今も命をかけて声を上げてデモしている中、私は同じ大陸の大学で平和に座って、そのことについてディスカッションしていることのギャップに正直ついていけていません。私が学んでいる学問は誰かのためになったり誰かを幸せにできるのだろうか?と疑問に思ったり。とはいえ、私がこの学問に興味があって学部を選んでいるので、そもそもこの学びが誰かのためになるかもと思って学部を選んでいませんが。ということで、私はありがたいことに今日も大学で学べている身なので、みなさんと私が学んで考えていることをシェアしたいと思います。

 

報道とsolidarity

今期私は言語や言葉が持つ政治的や社会的な力について学んでいます。そこで今週の初めにあるテーマでディスカションしました。Je suis Charlie(私はシャルリー)というスローガンをみなさんはご存知ですか?これはフランスの出版社、シャルリーエブドが2015年にテロで攻撃された際に、SNS上に広がったスローガンです。攻撃された出版社の名前を使い人々はその攻撃の被害にあった人との連帯を表現したスローガンです。(この動きについての批判も当時はかなりあったと思います。この事件の背景など、興味がある方は是非調べてみてください)このスローガンはblack lives matterの際なども、名前の部分を変えることで他のデモなどでも使われ続けています。でもこのsolidarity(連帯感)を表現するこのスローガンはどの事件でも使われてきたわけではありません。講義で話したのは、例えばナイジェリアで2018年にボコハラムが女子生徒を110人拉致した事件では、このスローガンは使われませんでした。アメリカでの事件ではヨーロッパでもこのスローガンが使われたケースがあるので、単純に距離が遠いからというわけではないと思われます。何が報道され、何に対して私たちはsolidarityを感じるのか?ということ現実を突きつけられます。アメリカで起こっている事件については共感しこのスローガンを使ったが、ナイジェリアで起こった事件については使われなかった、という事実は私たちが報道に対してどうリアクションを取っているのかということを示しています。報道についてもfake newsの概念が広がってから人々は何が真実か?(そもそも真実があるとするならば)ということには気を配るようになってきたのかもしれませんが、その前に何が報道されているのか?ということには気を配ることが少ない気がします。そもそも(あまり)報道されていないものは知ることが難しいですし、何が隠されているのかを知るのは、報道されているものが真実かどうか判断するよりも難しいと思います。授業ではこのような表現がどのような環境で使われどのような影響をもたらすのか、ということについてディスカッションしました。一つ一つの言葉や表現が持つ力は侮れないなとつくづく思います。

私も今日ウクライナの話について触れていますが、他のさまざまなニュースについてこのブログで取り上げてきませんでした。私がどのように報道に影響されているのかということもこのブログを通じて振り返らなければならないなと思っています。私も表に現れていない数々の出来事に目を瞑り続けている一人です。

 

 

テレパシー

話は変わって、みなさん「この人空気読めないなー」と思ったことはありますか?私はたまにあります。そもそもこの空気を読むということや以心伝心という感覚は日本人が持つ文化だと言われるので、私がオランダで他人に対して空気読めないなと思うことは私の勝手な感覚なのですが、先日あるセミナーで他の学生に対してふとこう思ってしまいました。教授が止めようとしているのに話し続けていて、教授が次の話題に行きたいんだろうなーと私は察したわけです笑笑。そこで昔、人に勧められて読んだ国際交流の本をふと思い出しました。その本には以心伝心は和英辞典で調べるとテレパシーと翻訳される、と書いてありました。テレパシーは超能力という意味も持つ言葉です。日本人が持つ文化、以心伝心は英語では超能力に近い能力として捉えられているのではないか?ということが書いてあったと思います。それでいうと空気を読むことも超能力みたいに翻訳されてもおかしくなさそうだな、と考えたりしていました。私は日本を離れてもう3年以上経ちますが、やはり日本で生まれ育ったので今でも普通に空気を読もうとしますし、相手の考えていることをよく想像しようとしてしまいます。(国や文化に関わらず、大なり小なり相手の考えていることを想像する人はもちろんいますが)それがいまだに自然と出てしまうことに、自分の育ってきた環境が自分に与える影響の大きさを考えさせられました。日本では当たり前にみんなしていることが、他の国ではテレパシーと解釈されるとは不思議な話ですよね。

 

 

 

今の起こっている状況について自分は何もできないですし、答えなんてありませんが、考えることだけは辞めたくないと強く思っています。ではまた。